我が家の歴史 

アクセスカウンタ

zoom RSS 戸塚派楊心流(揚心古流)について

<<   作成日時 : 2012/03/11 01:11   >>

なるほど(納得、参考になった、ヘー) ブログ気持玉 1 / トラックバック 0 / コメント 1

戸塚派揚心流(揚心古流)について 2012.03.10


 今回は、戸塚派揚心流(揚心古流)について書きたいと思います。
 内容は、父が書き残した「戸塚派楊心流 戸塚彦介先生のこと」を要約したものが中心です。

 戸塚彦介先生は、諱(いみな)を英俊、号を一心斎と称した幕末期における最大の柔術界の権威で、揚心流の総師であった。もとは沼津藩水野家の重臣で柔術師範、後に幕府講武所柔術師範に任じられた斯界の英才であり、揚心流柔術の大家で同じく水野家の柔術師範である戸塚彦右衛門英澄の長子として生まれ、父の流儀を継承した。
 揚心流派その名の示すごとく三浦楊心より発し、阿部観柳が流統を継ぎ、後に江上司馬之助武経が継承した。武経はこの流派の中興の祖といわれている。二十一歳の折、江戸に出て芝赤羽の心光院のそばに道場を開いた。寛政七年六月七日死去。四十八歳。
 その系統を継いだ戸塚英澄が、初め師恩を追慕して江上流を称したが、長子戸塚彦介英俊がもとの揚心流に復した。ちなみに揚心流には別に秋山四郎左衛門より発した秋山派楊心流がある。

 余談になるが新撰組隊士中柔術をもって高名な篠原秦之進、後改め秦林親(高台寺党)伊藤甲子太郎一派は戸塚門下である。彼の秦林親日記に「余は万延元年四月有馬家ヲ脱シ水戸ヲ志シ有志ノ輩会論ス、其後文久元酉年江戸ニ来帰シ愛宕下戸塚彦介先生ヲ師トス」云々もある。

 幕末当時、前文にあるように道場は、江戸芝愛宕下にあって門流数千人を擁し、各藩子弟の其の門に学ぶ者が多かった。門下に四天王、八天狗、十勇士等錚々たる高弟がおり当時柔術界に覇を唱えていた。

 昭和四十七年三月十日、人物往来社より発行の嘉納治五郎先生著「私の生涯と柔道」大滝忠夫編の文中にも「幕末当時の柔術界で日本第一強い門下を持っていたのは戸塚彦介であった。維新後になってもなお当時の名人が残っており、戸塚彦介本人もまだ達者であり、その後継者の戸塚英美もおって、その手に育てたもののうちなかなか技の秀でたものがあり、千葉県に本拠を据え、斯界に覇をとなえていたのだ」云々・・・と記されその間の事情を物語っている。

 門下には、後継である戸塚英美、片山弥次郎、照島太郎、新貝実雄忠篤、佐野周三郎、大竹森吉、西村定中の他、都築弘、天野正雄、鈴木清助、岩崎秀雄らの名が伝わっている。
 戸塚英美は、彦助の後継で嘉納治五郎とともに最初の柔道範士に選ばれている。

 照島は浅草花川戸街において、照島太郎柔術演武場を構えた揚心流の達人で、富田常雄氏著「姿三四郎」の小説に出てくる高士木島太郎のモデルになった人である。警視庁武術大会で講道館の西郷四郎と死闘を繰り広げている。(好地圓太郎との説がある)

 西村は、一夢斎と号した維新の生き残りの烈々たる壮士で、日本橋や相生警察(本所警察)の柔術世話係(師範)を勤め、揚心流小太刀の達人であった。

 大竹は、後に揚心流柔術の正統を継いで、日本橋浜町一丁目に五十畳ほどの道場を構え明治三十五〜六年頃の彼の全盛時代は、柔術の門下一千人、大竹流水泳の門下九千人を数えた柔術界最後の人物であった。彼の泳術は笹沼流で、笹沼八郎勝用の高弟である。森吉の晩年は、白髭の高僧の如き風貌をしていたが、つるつるの頭に二十七箇所の刀創を残していた。昭和五年六月六日七十八歳没、終焉の地は千葉県猪之鼻台である。

 新貝は、柔術よりむしろ剣術において高名で江戸島村道場の師範代で島村奴(しまむらやっこ)の異名があり幕末より明治にかけての名剣士であった。晩年、慶応義塾の剣道師範また麻布区会議員などをしていたという。

 鈴木は、千葉県警に奉職し、明治23年4月に発生した川崎銀行佐倉支店の現金輸送強奪事件に護衛として帯同し、賊にピストルで襲われ、重傷を負ったがひるまず、これを逮捕して殉職している。そして鈴木巡査を顕彰して昭和11年11月に碑が建立されている。
 
 彦介先生は、明治初年に千葉県船橋に転じ多くの門下生を養成し、警視庁柔術の最高師範をしていたが明治十九年四月十五日、七十四歳をもって逝去された。墓所は千葉県胤重寺にある。

 彦介先生没後、同流二代目を継承したのは嫡子彦九郎英美であり明治三十六年十一月、大日本武徳会から最初の柔道師範の称号を得た。明治四十一年十月二十四日、千葉市通町において六十余歳で没した。
 英美の没後、戸塚流を孤守したのは高弟の大竹森吉である。 

 大竹森吉の跡を襲ったのは、森吉の高弟亀崎忠一であるが、柔術においては師森吉を凌ぐと伝えられ、日本橋久松警察署の柔術師範をした後に、本所茅町に道場を構えた。しかし素行が修まらず、あたら一流の技を有しながら世に受け容れられず、幕末以来伝統のある柔術の名流戸塚揚心流の正統は、この人の代で滅んでしまった。
 しかし、雑誌『極意』(1998年)に最後の継承者の一人と思われる元日立高等学校校長保立謙三のインタビューが掲載されており、昭和の世まで流儀が継承されていたことが判明している。


戸塚派揚心流 一派の古写真
画像



 

テーマ

関連テーマ 一覧


月別リンク

ブログ気持玉

クリックして気持ちを伝えよう!
ログインしてクリックすれば、自分のブログへのリンクが付きます。
→ログインへ
気持玉数 : 1
なるほど(納得、参考になった、ヘー)

トラックバック(0件)

タイトル (本文) ブログ名/日時

トラックバック用URL help


自分のブログにトラックバック記事作成(会員用) help

タイトル
本 文

コメント(1件)

内 容 ニックネーム/日時
同じ写真を所持していた人を知っています!
TheNaokoSuzuki
2018/03/19 08:44

コメントする help

ニックネーム
本 文
戸塚派楊心流(揚心古流)について 我が家の歴史 /BIGLOBEウェブリブログ
文字サイズ:       閉じる